アイドル

SexyZoneのライブに行った。初めてジャニーズ、初めての横浜アリーナ

 

コロナが流行り出したくらいからセクゾが好き。特にケンティー。人に愛されることが仕事であるアイドルをめちゃめちゃ熱心にやっている。自然体の生まれ持ったキャラクターそのものというより、自分で作り上げたケンティーと全力で向き合ってる感じに心打たれる。

 

ライブは想像以上におしゃれかっこいい系だった。姫系ファッションのファンがゴリゴリのラップを聴いている。衣装もダボっとした感じだった。正統派な王子様系アイドルではないという感じ。椎名林檎の新曲を歌いこなし、KPOP的なダンスでキメてた。どの曲も難しそう。

 

席はスタンド席のちょうど真ん中で、ステージの正面でほとんどのパフォーマンスは肉眼ではよく見えない。そこにいるという存在感を頼りにビジョンを通じて表情を確かめる。とっておきのキメ顔に自然と歓声が沸く。

 

アンコールでちょうど席の後ろをトロッコで4人が通った。間近でみるとすごいかっこよかった。ライブTにジーンズというラフな格好で汗とスポットライトで発光してた。めちゃかっこよかった。美しさって強い。本当に。ケンティーは残念ながら後ろ向きで、よく見えたのは風磨くんと勝利くん。みんなかっこいいです。

 

「グループを残していくためには攻めないといけない」と勝利くんが話す。締めの挨拶はとてもしんみりしていて驚いた。チャプター2と題された今回のライブはマリウスが抜け、ドームコンサートを達成した彼らの再出発の意思が込められている。挨拶の言葉をそれぞれ方向性が違っていてどれも切実だった。照れもなく愛を語る感じが、覚悟決まってんなーと感動した。愛され続けるのは本当に大変だ。

 

ライブの帰り道に友達が、「なんか習い事始めようかな」と呟いた。わかる。すごく分かるよ。スポットライト浴びたい。「おれらかっこよかった?」と聞くケンティーを思い出す。照れもなく自信をもって人の前に立つあの感じを味わいたい。自分を見て欲しいと言えるくらいになりたい。

 

アイドルは本当にすごい。

 

 

 

目標

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睡眠時間が長すぎる。あまりにも長い。目を開けるのも面倒で、意識だけで起き寒さを確かめてる。布団がぐちゃぐちゃになって上手く包んでくれないから寒いんだ。もぞもぞと身体を動かし、手足を動かしてなんとかなる範囲で布団をなおす。はーと思っていると知らぬ間に意識も眠ってしまう。まったくいつになったら起きる気だ!と突っ込みながらやめられない。気持ちいい。気持ち良すぎて2023年がこのまま終わっては困るから目標をかく。

 

今年の目標

・英語のシャドーイングをする

・展覧会とか映画館とか身体を使って楽しむ

・感想を書く

・TOEIC900点

・ヨガをする

・海外赴任できるように仕事を頑張る。

 

やってることと目標があってない。

目標だからいいんだっけ。

 

 

2022/12/4

11月のはじめ頃、なんだかとても落ち込んでいたのだけど、そしたら長い旅行中の友達から手紙が届き、またある人から主人公がちょっと私と似てるって、ある本を紹介された。

 

一緒にいなくても思い出してくれる人がいることが、じんわりと暖かくてほっとした。そうしたら元気が出て、11月を乗り越えて12月になった。こうやって、緩やかに救い救われながら生きていけたらと思う。みなさま、ありがとう。

 

 

今日は外苑前の少しだけ残った銀杏を見て、甘いミルクティーを飲んだ。帰りにまつ毛にパーマをかけて気合いを入れて、家の目の前のコンビニでミルクアイスを買った。あんまり気分よく帰ったから、何年振りかの日記を書いている。

 

27歳の抱負は

・土日を充実させること

・英語がもう少し話せるようになること

・仕事の目標を決めること

 

ということで、1人で行きにくい場所に行きたい時とか、人数が足りない時とか、誘ってください。予定が被らない限り行きます!

 

 

 

 

 

 

学生資格剥奪

学生という身分も今日で終わってしまう。ヌルヌルと人と会うことなしに一人の日常の中で迎えることになるとは思っていなかった。

 

物語に登場する学生がそうであるように、生きることに困ることはなく、交換可能な毎日を当てずっぽうに過ごす。村上春樹が描くほどは、空でもないし受動的でもないけど、心のどこかはずっと暇だったような気がする。暇を持て余すことなく、暇を暇として存分に楽しんだ感じはする。オレンジ色の砂漠も見たし、蛍光緑のオーロラも見た。いろんな考えを知ったし、いろんな人に会った。これからもきっと仲良くしていれる友達もできたし、めちゃくちゃ尊敬する人もできた。

 

節目があるといいことは、今までにあった嫌なこととか辛いこととかそういうのがいったん精算されて成仏されることなんではないかと思う。嫌なこととかもそれなりに覚えておくタイプだけど、今となってぼんやりと、なんならあったかいような思い出になっている。今なら、本気で出会った全ての人や景色、モノに感謝できそう。

 

なんかもっといろいろ思うのかと思ったけど、意外とそんなこともなく、極々自然に終わるもので拍子抜けする。学生と名乗れなくなるのは寂しいし、学割を手放すのは惜しい。私のシェルターこと本郷の森から離れ、高いビルの街に巣つくのは緊張するけど、きっと大丈夫だろう。

 

もう一回、ボードゲームして夜更かしして遊びたかった。

明日から、ちょっと派手だけど気に入った名刺入れ持って頑張る。

ワンルームの話

災害の多い今日この頃、ふと自分の家が壊れたり浸水して、家にあるモノたちについて考えた。私の家はものに溢れている。引越しの時、単身者用のトラックには全然治らない。服も本も食器も、とにかくいろんなものがある。

 

当たり前だけど、私の部屋には、私がいつの日か選んだもの、もしくは人からもらったものしかない。上京するときに、購入した家具の中には、私の大切なものだけが入っている。ベットの横にある本棚には、私が何度も読んだ漫画と、小説、建築に入って読み始めたいろんな本が並んでいる。本の形で持っていたくて、webで読んだのにわざわざ買ったものもある。季節ごとに総入れ替えする洋服たちは、高校生から着ているお気に入りもあるし、この間の誕生日に買ってもらった新しい服もある。高校を卒業して初めて買ったピアスもある。お茶のお稽古を始めたから、おばあちゃんに借りている着物もたくさんある。食器は、実家にあるもののうち好きなものを選んで持ってきた分と、旅行先で少しずつ買い集めたものだ。友達に書いてもらった絵を額に入れて飾っているものもあるし、小学生からシリーズで集めている干支の置物もある。

 

一つひとつ、選んだ時のことを思い出せる。なんでもデバイスに、持ち物は少なくミニマムにという時代。モノがなくすっきりした身軽な部屋も憧れるけど、そうなることはないんだろうなと思う。つくづく、シンプルからは遠く、興味は散漫で、部屋には生き方が出てしまうなあ。友達の部屋に行ってその人らしくないことなんてないような気がする。人生変えたくなったら部屋を変えようと思う。

 

スッとしてないし、統一感がある訳でもないし、そんなにお洒落な部屋って訳でもないけど、今はここが私の大切なお城だ。人生のかけらを閉じ込めたものたちへの愛が止まらない。ほこり払ってなくてごめん、年末にはきっと掃除をしよう。

 

震災の時、いろいろ不安なことについて思っているうちに、まだ一度も来ていない高校の制服が無事かどうかが気になっていた車内泊の一日のことを思い出した。

 

 

 

 

 

未来の自分にブーメラン

私はオザケンが好きだ、いや好きだった。

1990年代の曲たち、空白と呼ばれていた時期に書かれていた文章、復帰してからのライブ。新しい曲が出るのをいつも待っていたし、最近活発なツイッターも楽しんでた。ライブでは心がいっぱいになって、涙が溢れた。今を愛して、マルチな宇宙に思いを馳せるとことか、少年のような強さと弱さに憧れていた。もうどう見てもおじさんなのに、飄々と若々しい訳でなく若いところもいいなと思っていた。

 

でも最近のツイートそんな気持ちに影ができて私が辛い。

僕はUS以外の非先進国で、計約3年自炊生活していた。今の僕に最大の影響があるのはその時間。地上77億人のうち約67億人の非先進国な暮らしからの世界観、常に思う。日本の清い水道水、安全な町。移住自由だったら、日本圧死しますよ。政府万歳とか言ってるんじゃなくて客観的な事実として、圧死笑。

 

 えっまじか。そんな感じかなんか違くない.........

まず、この客観的な事実からの.......笑の表現がちょっと嫌。まあまあよく聞くしよく流れてくる表現だけど、どの辺りが客観的かよく分かんないし面白くない。悲しい。

 

そして、ナショナリズムを見るような、しかも家庭や身近な愛から始まる排斥を感じる思想は今の私にはちょっと辛い。オザケンが結婚し子供が生まれ、日本で教育しようと考えたこととか思うと、そういう流れの中での考えを見るようだ。

近くにある自分の大切な世界を守ることは、大切だし私だってそうしたい。その外側にあるものは怖いし、外部からは守られていたいというのも分かる。でも、愛を理由に、排除が正当化してしまうのは、これからちゃんと自分で立って生きていこうと思っている我が身には辛い。何かしらの単位の内部から溢れたら、それだけで排除される理由になってしまう気がしているのだと思う。

 

子供がいるいないとか、どこに住んでいるかとか、そういうことで人々がすれ違うだろうか。大切なものが違うと仲良くできないだろうか。

 

普遍的な愛を、立場やカテゴリーに寄らない美しさ、現実の奇跡を歌っていたオザケンさえもそう思うのなら救いがない。

 

こんな気持ちは、未来の自分に向かって盛大にブーメランを投げているようなものだとも思うし、考えが変わるのは当たり前と思うけど、今はこう思っているから言いたい。ブーメランだっていい、その時はしっかりブーメランの脇腹チョップを受けよう。

 

無限に広がっていくことを恐れない思考は若さだと言われたけど、歳をとって知ることはいったいなんなんだろう。経験は何をもたらすのだろう。

 

こんな考えは若さの暴力だと言われたけど、どうだろう。全部間違ってるかもしれないし明日は違う風に思うかもしれないんだけど。

 

 

明るい夜中

土曜日の夜、渋谷でFFFというイベントに行った。

友達が作ってくれたプレイリストで予習して、何人かめぼしいアーティストを見つけて彼らを見に行った。所謂、クラブというところに行くのは3回目くらいで、初めて最後のDJが曲を終え、照明が明るくまでその場にいた。

 

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友達のラジオに出演していた ゆnovation さんのライブを見ることができた。前に、ある程度あるという曲を聴いて、何回も歌詞を読んだことが思い返される。舞台にたつ彼女は想像していたより少し小さくて、黄色いワンピースを来ていた。ヘアピンでしっかり髪が留めてある。MacのPCと鍵盤ハーモニカ、マイクを行き来しながら、全て一人でこなしている。くるくると、ハーモニカを持ち替えたり、唇をハンカチで拭いたり、はっとPCに向かってクリックしたと思うと、マイクに飛びつく。動きがキビキビしていて、職人という感じがした。ハーモニカの音は、上昇気流に乗ってミラーボールに吸い込まれていくみたいに、明るく消えていく。とてもよかった。真夜中の箱の中で聴いたけど、芝生が広がるところで聴いて見たいような新曲だった。ミュージシャンって最初から最後まで全部一人でやることもできちゃうんだと思うと、本当にすごい。世界のどこでも生産者になれるのは、強い生き方だ。

 

 

クラブではスポットライトが客席にも降り注がれる。舞台と自分の距離によって、見える景色が全然違う。目の前の女の人は髪を見出しながら激しく揺れていた。その姿に目が離せなくなって、私から見ると、その人が舞台で踊っているみたいだった。

 

 

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