蚊取り線香
夏って毎年暑くてびっくりする。密度の薄い毎日を過ごしている。
セミの鳴き声ってずーと続く気がして、みんな交代交代で鳴いているのかその辺どうなんだろう。すごい長くセミと短いセミとかいるのか。生まれ変わった時に、人間じゃないならセミがおすすめらしい。ずっと土の中にいて、目覚めた時の世界が美しすぎて、生きている2週間とか本当に最高なんだって。
今年は蚊取り線香に目覚めた。線香の独特の香りとか、緑のへび見たいなのからつらつらと煙が流れるのもずっと見ていられる。古風なカンカンもいい。家におきたくて買いに行ったら想像よりずっと大きくて諦めた。流石に持て余してしまう。おばあちゃん家で縁側にあれ置いて、日向ぼこっとした。庭の木が程よく太陽を遮ってくれて、風鈴が風を知らせてくれて、その場にあるあらゆるものがこの瞬間を快適な方に引っ張ってくれているようだった。ずっとこのままでいたい。
おばあちゃんと私は多分相性がいい。特に何を話すという訳でもないけど、一緒にいると心地良い。ぼんやりゆったり、何にも怒る気にもならないし、何にも焦らないでいられる。おばあちゃんのトロンとした腕を触りながら、ボーとその瞬間のことだけしか頭にないでいられる。おばあちゃん本当に長生きしてほしい。
・最近の社会科見学
定期開催の社会科見学で、メタル系HIPHOPというかとにかく激しいライブに行った。深夜の渋谷でNYCからきたアーティストが目の前で狂いまくってた。かなり面白い。光が明滅する中で、大音量のマイクパフォーマンス 。最後の方マイク食べてた。これを見てる観客もすごい、人の上を人が流れて行ったり、押し合いへし合い、踊り狂っていた。私、人生であんなにテンション上げた瞬間ない、人ってあんなにテンション上げられるんだとか思ってしまった。小松菜奈の出てる「渇き。」のクラブシーンが写真の連続で表現されているけど、明滅のおかげで本当にあんま感じで見える。こんな世界もあるのかと、すごい面白かった。クラブハウスを出た瞬間の白けた渋谷も面白い。タクシー探す間に一気に世界が戻ってくる。音楽って物体というか波受け取るってことなんですね、知らなかった本当に。
・春の庭
少し前に芥川賞とってた小説。配置図と立面図がかけそうなくらい建物の様子が詳細に書かれていて、でもなんだかいつもずっと高いところから見下ろしているような調子で面白かった。自分のことも、一通り終わった後に書いているかのように低温で捉えていて不思議な気持ちになった。私はいつだって自分のアイレベルでしかものが見えていないということがよくわかった。だからといってすぐに視点が変わる訳ではないけど、もう少し湿度を下げて生きたら、色々うまくいきそう。できないけど。
意思疎通のこころみ
荒川の河川敷を散歩した。
サックスを練習するおじさんとカラスと話すおじさんがいた。動物と話してる感じの人、たまにいる。わたしのおばあちゃんも、まるで孫の一人かのように犬に話す。ただ、このおじさんは人ではなくカラスの方の言葉に合わせて話してたみたい。
先日、アニマルと呼ばれる動物と話せる女性に会った。アニマルというと格闘家をイメージしそうだけど、揺れるスカートを着たハーフアップの女性だ。彼女は、訓練した結果いろんな動物と話せるようになったと言っていた。動物によって思考の深さはいろいろで、鳥とかは読み取れないくらい単純なことしか考えてないらしい。もっとも、深みのある複雑な思考をしているのはカメらしい。小さい頃、習字の先生が勝っていたカメを思い出した。
わたしは今まで、動物と意思疎通しようとしたことはなかった。自分とは違う動きで見た目で怖いという正直な気持ちからだ。でも知ってみたら面白いだろうなと思った。
カラスと話すおじさんは、なんだかとっても和やかな様子で、二人?だけの空間だった。
ふと、動物と人を一緒にカウントできる匹とか羽とかの単位欲しいと思った。なんかそんな言葉がそろそろ必要な気がします。
虎になる
ぼーとtwitterを見ていたら出くわした山月記を題材にした記事を読んだら最近のモヤモヤに納得が行った。
https://note.mu/okaki_tabetai/n/n0a784b08b1b2
高校生のとき、私の周りでもなんか感情が高ぶったり、どうしようもなく沸き起こる感情に振り回されて自分がコントロールできなくなったりすると「虎になりそう〜」と言うのが少し流行っていた。
大学生になって一人暮らしするようになって、好きなように自分の居場所も時間を整えることができるようになって、どんどん自分化していった。自分がどう言う人間が理解している訳ではないけど、自分ぽさが強まっていくのを感じている。
学生最後の一年と思って、私は意識的に社会のいろんなことやいろんな考えに触れようと思って、心や頭を慌ただしく動かしている。めらめらするようにいろんなことを考えたり、頑張ろうとすると、スーと自分の内側が尖っていくような感覚になる。自分だけで過ごすそんな時間はどこか心地よくて、自己肯定感が増すような気にもなる。でも、ふと誰かと話したり、出会ったりすると、その内側で磨いていたそのやりが外側に出て、自分とは違うものを傷つけようとしている感じになる。
先週1週間、親が泊まりに来ていた。母の話の大半は身近な人間関係の話で、そのうち半分くらいは既になんども聞いている話だ。日々、新しいものを消費しまくっている私にとって退屈だったり、またその話しかとイライラしてしまうことが多かった。結果、私の尖らせた自我は母を傷つけただろう。そして傷つけたこと、傷つけていることにどうしようもなく悲しくなり、私はいったいなんのために自分を磨いているのだろうと思った。自分の世界で自分が信仰するものに詳しくなったり、考えたりそんなことをしているうちにその外側にあるものへの関心は薄れ、優しさを失っている。
人を傷つけるために学びたい訳でも自分磨きしたい訳でもないのに、結果としてそうなってしまっている。なによりもまず、目の前の人や出来事に愛情を持ちたい。できてないけど、そういう人になりたい。
ふと我にかえる。そして何かをすることを徹底的にやめて一日をぼんやり過ごす。
虎になってはいけない、そんなのは嫌だと思って、人に戻るために時間を使う。
現在には過去を変える力があるらしい
懐かしい人にあった。小学校からの同級生で小6のクラスも中3のクラスも一緒だった二人と上野の大統領でお酒を飲んだ。男の子を〇〇ちゃんと呼んでいたような時代の頃からの友達で、会うのはとても久しぶりだ。地元で暮らす親同士がたまたま街であって、その話を聞いて会いたくなって会うことになった。
いろんな話が出てきて、今だから言えるあの時のこんな気持ちやあんな気持ち、もう10年以上前の話だから多少の脚色やごまかしも含まれている思い出話。なんでそんなこと覚えてるのってこととか、お互い印象に残ってる事件の話とか、今ではもう全て笑い話。小6の私がバレエをやめてずっと長かった髪を切った話、なぜかあれが衝撃で覚えていると言われた。そんなことは私がとっくに忘れてた。
たぶん優等生だったわりに何かと先生に呼び出されては怒られていた。多感な時期の男の子にマザコンって言って泣かせちゃったことあったな...本当にごめんなさい。ものすごく恥ずかしいことや、申し訳ないこともいっぱいある。
さっき、すべて笑い話と思ったけど、笑えないこともあるややっぱり。今になって言葉にできるようになって話せることも、あの当時は言葉を知らないからなんとなく空気とかでお互い伝えあったり感じあったりしていたのだろうか。そんな話したこと全くないのに同じようなことを思っていたりして面白い。
カラフルな遠足の水筒を握っていた手で今はビールジョッキを握っている。明るい教室しか知らなかったあの頃から随分時間はたった。
過去があることってたまに、死ぬほど嫌だけど、過去って素晴らしいなと思った夜だった。最近読んだ小説が、「現在が過去を変える」と言っていた、現在とは未来と過去の矛盾点らしい。変わりゆく過去もしっかりその時その時見つめて、更新していくのも時にはいいものだなあと思った。
晴れた午後は日曜でなく火曜日に
暑い日曜日だ。午後になって家を出てみたら夜中の雨が嘘みたいに晴れている。
嘘みたいと思ったけど、あれだけ振ったらすっかり晴れもするよねとも思う。
東京ステーションギャラリーでやっている「ルート・ブリュック展」が最終日だったから行ってきた。名前を初めて聞いたのだけど、ポスターのライオン見たいな生き物が可愛くて見に行きたいと思っていた。フィンランドの作家らしい。会場について見ると、列ができていて中はすごく混んでいた。iphoneのシャッター音が鳴り響いていて、ちょっと疲れた。平日に来るべきだった......
こんな晴れた気持ちの良い午後は日曜日なんかじゃなくて火曜日に来て欲しかった....
今週は色々と展覧会に行ってきた。
「クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime」は乃木坂駅直結の美術館で開催中。
行ってらっしゃいから始まっておかえりで終わる展示で、中心部には心臓がある。
ユーモアを含んだ怖さという、怖さの中で最も怖い種類の怖さがあったのだけど、後から作家について調べたらちょっと納得した。魂見たいなのと、その抜け殻見たいないろんなものが漂ってて、空間としてとても面白かった。展示会場を出た後にアートライブラリーに行くといい感じ。
乃木坂駅の違う方の出口に近いギャラリーで中山さんの展示を見に行った。展示会というより小さな個人シネマという感じで、3Fが待合で4Fが劇場という感じ。建築のその後として、住まわれている家の映像を見ることができる。家で暮らすってなんかいいな、私も家で暮らしたいとつくづく思った。ちゃんと使いこなすように、一つの家の中で場所を選んで生活したい....
そして、人が動いてるってだけで感動できるもんだなと思った。どのように生活しても意味はなくとも人ってかわいすぎる。
その後、トークイベントに参加して映画と建築について聞いた。批評の話とかもしてて面白かった。自分の軸足を持って起点に(これが信仰の対象というやつなのでしょう)物事を考えれば、きちんと考えることができる見たいな話をしてた。建築を考えることで身につけた確かな価値観?をもつことで他のものも見れるようになるってこと何だろうと。これは千葉先生も言ってたな。
そんなこんなで1週間はすぎた。あとは御殿下に通い始めた。自分の身体って指先まで神経通ってるんだな、最近忘れてた....
最近は生きているという感じで特に何もしてはいない。けど1週間、楽しかった。
世界で最もタフな15歳
村上春樹原作の「海辺のカフカ」の劇を見に行った。今はなき蜷川幸雄が演出してて佐伯さんは寺島しのぶが演じてた。実は4年前に同じ演出で宮沢りえが演じた海辺のカフカを見に行ってて、色々あってもう一回見ることになったのだけど、びっくりするくらいあんまり覚えてなかった。今回は、前日から小説を読み始めてちょうど上巻が終わったとこで舞台の時間になった。
小説は最初、オムニバスみたいに違う話が同時に少しづつ進んでい舞台くのだけど、これが演劇になると、ガラスに囲まれた不揃いの箱が舞台の上を漂ってて、それに真っ直ぐな白い光が降り注ぐ。箱と箱のない場所の関係が面白くって、舞台が大きくなったり小さくなったりしてるみたい。
すごく長い演劇で前半後半に分けて3時間くらい。前半は、小説の乾いた感じに比べて、人が演じるから湿っぽくて温度高くて、ついてけない....みたいな気持ちだったけど後半はどんどんその熱量に巻き込まれていってこっちまで緊張した。広い劇場なのに足組み替える動作一つに注意深くなった。
小説の舞台化と思うと、色々物足りないとことかイメージ違う見たいなのもあったけどオマージュと思うとすごいよかった。あーこういう解釈なのかとか、大島さんが言ったこの言葉とこの場面がリンクしてるって考えることもできるのかとか。あとキャラクターについてはもっとクールな感じだと思ってたけど(小説では頭の中見てるから)確かに、声出したらこんな感じかも、肉体とか伴うとそんな感じかもとか思って、そう思うと村上春樹小説全般もまたちょっと違っても読める気がした。
あとパンフレット可愛かった。
私は消費者として東京であらゆる消費を貪ってる。「最近何してる?」って聞かれるとよく分かんない。いや、毎日結構色々やってるんだけど、改めて聞かれると好きなことを毎日アドホックにやってるだけという気もする。いやいんだけど、いいのかなって、まああと1年ならいい?
最近みるコンテンツが揃いも揃って想像力の話をしているという気がする。
考えが及んでないというのは結構怖い、個人的には。知らないうちになんかを悪くするのは嫌だなとそれだけ思う。
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タイトル通り。前はnoteを使って見てたのだけど、ちゃんと書かないといけない感じが強くてこっちを使ってみることにした。
日記を書くということ事態は最近やっているし、言葉にすることは好きな方だと思うけど、自分が書いたものを人に見られることには全く慣れていない。それなのにヒョンなことから文章を書く仕事につくものだから練習しようと思う。少なくても見られるかもしれないと思うと、ちょっとはましに文章を書くのではないかと思う。
今、私の視線の端っこで教授が授業している。教育学部の教授らしいメガネに小柄の先生で結構いい声してる。授業がお昼の1時から始まるものだから、みんなぼんやりしている。私みたいに関係ないことやってる人だけ動いている。先生ごめん。
授業とか一生懸命きくタイプじゃ全然ないけど、ふとみんな聞いてないことに気が付いて勝手に悲しくなる。身勝手だなあホント。