未来の自分にブーメラン

私はオザケンが好きだ、いや好きだった。

1990年代の曲たち、空白と呼ばれていた時期に書かれていた文章、復帰してからのライブ。新しい曲が出るのをいつも待っていたし、最近活発なツイッターも楽しんでた。ライブでは心がいっぱいになって、涙が溢れた。今を愛して、マルチな宇宙に思いを馳せるとことか、少年のような強さと弱さに憧れていた。もうどう見てもおじさんなのに、飄々と若々しい訳でなく若いところもいいなと思っていた。

 

でも最近のツイートそんな気持ちに影ができて私が辛い。

僕はUS以外の非先進国で、計約3年自炊生活していた。今の僕に最大の影響があるのはその時間。地上77億人のうち約67億人の非先進国な暮らしからの世界観、常に思う。日本の清い水道水、安全な町。移住自由だったら、日本圧死しますよ。政府万歳とか言ってるんじゃなくて客観的な事実として、圧死笑。

 

 えっまじか。そんな感じかなんか違くない.........

まず、この客観的な事実からの.......笑の表現がちょっと嫌。まあまあよく聞くしよく流れてくる表現だけど、どの辺りが客観的かよく分かんないし面白くない。悲しい。

 

そして、ナショナリズムを見るような、しかも家庭や身近な愛から始まる排斥を感じる思想は今の私にはちょっと辛い。オザケンが結婚し子供が生まれ、日本で教育しようと考えたこととか思うと、そういう流れの中での考えを見るようだ。

近くにある自分の大切な世界を守ることは、大切だし私だってそうしたい。その外側にあるものは怖いし、外部からは守られていたいというのも分かる。でも、愛を理由に、排除が正当化してしまうのは、これからちゃんと自分で立って生きていこうと思っている我が身には辛い。何かしらの単位の内部から溢れたら、それだけで排除される理由になってしまう気がしているのだと思う。

 

子供がいるいないとか、どこに住んでいるかとか、そういうことで人々がすれ違うだろうか。大切なものが違うと仲良くできないだろうか。

 

普遍的な愛を、立場やカテゴリーに寄らない美しさ、現実の奇跡を歌っていたオザケンさえもそう思うのなら救いがない。

 

こんな気持ちは、未来の自分に向かって盛大にブーメランを投げているようなものだとも思うし、考えが変わるのは当たり前と思うけど、今はこう思っているから言いたい。ブーメランだっていい、その時はしっかりブーメランの脇腹チョップを受けよう。

 

無限に広がっていくことを恐れない思考は若さだと言われたけど、歳をとって知ることはいったいなんなんだろう。経験は何をもたらすのだろう。

 

こんな考えは若さの暴力だと言われたけど、どうだろう。全部間違ってるかもしれないし明日は違う風に思うかもしれないんだけど。